1982年から続けてきた微生物の基礎研究や医療機関における臨床を経て、独自の腸内フローラ移植(便移植)方法を開発しました。微生物たちとの共存共栄には、無限の可能性があると信じています。
シンバイオシス研究所 -微生物との共存共栄-
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腸内細菌とわたしたちはひとつであり、統合医療は物語である

「腸内細菌はわたしたちの一部」という考え方を、よく患者様にお伝えします。
それは決して、「わたしたちが腸内細菌を所有している」という傲慢な意味合いではなくて、「こちらからお願いして、わざわざ腸に住んでもらっている」という意味です。

ただ最近読んだ本で、もっと存在の根底レベルから、わたしたちはひとつのものなのではないかと考えるようになりました。

周りから切り離された「個」としての自分

個人主義

ときどき、むしょうにさみしくなることがあります。
答えなんてないのに、ぐるぐると考えてしまって、無限ループにはまる。
その無限ループの一部をご紹介しますね。

あー、人付き合いってつかれる。
どれだけ一生懸命しゃべっても、しょせん人は人。
「自分」っていう存在はどこまでも孤独なものなんやわ。

でも、わかってほしいなあ。
わたしの話し方が悪いのかもしれん。
もしかしたら、心の奥底で分かり合えるのかもしれん。

でも、完全に同一の考え方を持つ人がおったら、それはそれで気持ち悪くない?
世界って多様性があるからこそ豊かなんやし、そのせいで孤独や争いも生まれるけど、やっぱり愛すべき多様性やわ。

でも、じゃあこういう時々襲ってくる「さみしさ」とか「不安感」とかにどう対処したらいいん?
休日は家で誰にも邪魔されずに本を読んでいたい気持ちと、家族がみんな出かけて「やっぱり家族には家族の人生があるんやわ」とか思ってさみしくなる気持ちとの狭間で。

あー、もう誰でもいいからぎゅってして!!!

終わらない無限ループ。
だいたいこのへんまで来ると、ローソンの「みんなで食べるプチシュー」が一袋あいています。
みんなではなく、ひとりで食べきる。

「どうせわたしは、一緒にプチシュー食べる相手もおらへんわ。でもこれ13個入りやし、素数やし、やっぱり一人で食べるために作られてるんやわ」
こういう感じで、うまく思考が逸れて、そのままシュークリームのレシピをクックパッドで調べ出したりしたら、ループから抜け出したと判断。

仏教で言う「涅槃」ですね。
輪廻転生の無限ループから脱出成功。

ちょっと前置きが長くなってしまいましたが(毎度毎度、すみません)、こういうのって、自分という存在が周りから切り離された「個」と強く感じるから起こるのだと思います。

「あなた」はどう思うか。
「あなた」はどうしたいか。
「あなた」は他の人とどう違うか。

こういったいわゆる個人主義は、明治以降に急速に西洋から日本に輸入されてきました。
それまで日本では、大きな意味合いでの家族としての「イエ」があり、万物に神が宿ると信じ、その大いなるものに含まれる自分がおり、自己と他者の境界線はどちらかというと曖昧でした。

そのため、特に日本人はいびつに当てはめられた個人主義にうまく適応できていないのではないか、と思ったりします。
それが、精神疾患の増加にもつながっているのかも。

でも実際のところ、わたしたちの存在というのは、ひとつひとつ明確に区切れるわけではないのではないかと思うんですね。
大好きな河合隼雄さんが、『こころの声を聴く』という本の中でこのように書いておられます。

井筒俊彦という先生が面白いことを言っておられる。われわれは、例えばコップが存在するというふうに言っているけれども、ほんとはそうじゃなくて存在がコップしているというのが一番ぴったりくると言われるんですね。P242こころの声を聴く

これ、めちゃくちゃおもしろい考え方やと思いました。
まずいちばんの根底に「存在」があって、それが仮にコップ、本、電車、太陽、てんとう虫なんかの形を取っているだけなんだと。

つまり、「存在がちひろしている」ということであり、「存在が腸内細菌している」ということです。

細菌たちがわたしたちの身体に住み着いて、互恵的に共存しているという意味合い以上に、利害関係を超えてひとつの存在なんだというニュアンスがなんとなくわかっていただけたでしょうか。

自然科学の功罪

自然科学

ところで、人類のめざましい進歩を支えてきた主要なもののひとつに、自然科学があります。
人為的ではない自然現象を対象に、そこに普遍的にある法則性を見出す学問です。
ちょっとここでは、医学や工学などを含んだ広義の意味で話しますね。

この自然科学の観測力や分析力のおかげでたくさんのことがわかり、生活が便利になったり、人類の寿命が延びたりしてきました。
ただ、今の人たちはなんでもかんでも自然科学で解明できると思いすぎている感じがします。

河合隼雄さんが、同じ本の中で延べています。

この日常レベルの線をもっとも洗練したのが自然科学だろうと僕は思ってます。例えばここにジュースがあると、存在がジュースするなんて言うんじゃなくて、ジュースを分析する。分析によって説明できることは多くなったわけです。でも、自然科学的なことによって人間はいろんなことが何でもできると思いすぎたんじゃないでしょうか。自然科学の考え方でいくと物語は消え失せてセオリーというものが出てくる。理論があって、因果関係で人間のことも考えすぎるようになる。P244こころの声を聴く

これは村上春樹さんとの対談の中のお話で、だから物語という言葉が出てきています。
このお二人の対談は、本当に素晴らしい内容が多い。『約束された場所で』の巻末とか、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』なんかもよかったら読んでみてほしいです。

なんか話が難しくなってきて眠たくなってきたので、ものすごーく簡単に話します。

自然科学というのは、
「500wの電子レンジで3分加熱したら、誰でも簡単に最適な状態の肉まんができます」
みたいなことですよね。

問題は、「最適な状態の肉まん」を過大評価しすぎていることだと思うんです。

たとえばある日、残業で遅くなった妻のカオリちゃんに肉まんをチンしてあげたらめちゃくちゃ喜んでくれたとします。
でも翌日、残業で遅くなったカオリちゃんに肉まんをチンしてあげたら、めちゃくちゃ怒られたとします。

夫はすごく混乱します。

カオリちゃんは言います。
「昨日も肉まんやったやんか!! 肉まんさえチンしておけば喜ぶと思わんといて!」

会社で嫌なことがあったんでしょうか。
生理前なんでしょうか。
それとも、単に虫の居所が悪かったんでしょうか。

一日目にカオリちゃんが喜んでくれたのは、「肉まんが存在していたから」ではなく、「存在が肉まんしていたから」なんですね。
ここでいう「存在」は、「夫の愛情」としときましょう。

二日目の肉まんは、もう夫の愛情を表すものではなく、カオリちゃんにはただの惰性みたいに感じられちゃったんですね。

物語がなくなりかけている

物語

この「存在」と「物体(あるいは現象)」の橋渡しをするのが、物語だと思います。

先ほどは「存在」を仮に「夫の愛情」だとしましたが、ほんとうの「存在」というのはもっともっと深いところにある、形を持たないものです。
それらが無数の物語の橋渡しによって、言い換えると「例えば」の繰り返しによって、「腸内細菌」や「一人の人間としてのちひろ」という形に置き換えられていきます。

自然科学的な考え方は、この人知を超えた「存在」をまるごと受け入れるのではなく、腸内細菌のありようや、ちひろのありようを分析し、それらの関係を目に見える因果関係で結ぼうとするのです。

ある程度までは法則性が見つかるかもしれませんが、その方法では大切なところが決定的に欠けてしまうと思うのはわたしだけでしょうか。

ここで物語というのは、小説を読む人が減ったとかそういう話をしているのではありません。
あらゆることが説明可能であるかのように言われ、人びとの暮らしがパッケージされた消費で満ちていき、わたしたちの根底にある存在へアクセスする道筋としての物語の力が弱まっているのではないか、ということです。

これはとっても怖いことではないかと思うのです。

統合医療と物語

統合医療

あまり腸内細菌や医療の話に触れないまま記事が終わってしまいそうなので、最後に少しだけ。

最近になって、「統合医療」ということがよく言われるようになりました。
これは、西洋医学と東洋医学の融合という意味でも使われますし、病気を大きな枠組みで見ましょうというホリスティック的な意味でも使われます。

一箇所に発現している「疾患箇所」ではなく、ひとりの人間ぜんたい、ひいてはその人を取り巻く環境も含めて病気を考えましょうということです。

ここでいう「人間ぜんたい」や「環境」というのは、もちろん先ほどまでの「存在」というのも含まれています。
ただこの存在というのは非常に捉えにくいものですので、大きなひとつの存在を通してつながっているんだ、という漠然とした意識があればいいかと思います。

いわゆる「統合医療」と言われるものの中にも、この存在を無視しているものも混じっている気がします。
いくら病気と食べ物、病気と性格、病気と家庭環境をつなげようとしてみても、それらを直接的につなげて因果関係を見出そうとしている限り、うまくはいかない。

その底にはいったい何があるのか。
まずそこへ意識を向けることを忘れてはいけない。

そこで重要になるのが、物語です。
捉えどころのない漠然とした存在へ、物語という交通機関を使って降りてゆく。

それは目の前にいる医師だけが知っているものではもちろんなく、自分ひとりで、あるいは自分が道案内をしながら医師と一緒に降りてゆく。

そこには、「腸内細菌になるかもしれないもの」や「ちひろになるかもしれないもの」をはじめ、
「みかんになるかもしれないもの」
「太陽になるかもしれないもの」
「ビル・ゲイツになるかもしれないもの」
がぜんぶ一緒くたになって存在している。

それらをくぐり抜けた上で現実世界の病気にアプローチするとき、本当の意味で病気は治っていくんではないかと思うんですね。
ちょっとわかりにくいけど、絵に描いてみた。

存在がコップしている

わたしたちが統合医療というとき、こういったことを意識しておくことはわりと大切なんではないかと思います。
腸内細菌の分野ひとつとっても、とてもじゃないけど単純な因果関係だけでは語りきれないところがあります。

なんかめちゃめちゃ長くなってしまったうえに、わかりにくい文章になってしまったかもしれません。
今日のところは、これにて失礼します!

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自分の目で見えて、自分の手で触れられるものしか信じてきませんでした。 でも、目には見えないほど小さな微生物たちがこの世界には存在していて、彼らがわたしたちの毎日を守ってくれているのだと知りました。 いくつになっても世界は謎で満ちていて、ふたを開けると次は何が出てくるんだろう、とわくわくしながら暮らしています。 ご挨拶と自己紹介も併せてご覧ください。
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